第26回ザッカデザイン画コンペティション

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特別企画

<support surface>研壁宣男さん キャリアインタビュー(Part2)

~単身イタリアに渡り、ロメオ ジリのもとで働く~

─ お金もない、言葉もできない中でイタリアに渡り、ロメオ ジリに面接に行かれたのですね。

研壁:最初のパリコレ直前の時期ということで、ロメオ本人は忙しく、会社の共同経営者であるカルラ ソッツァーニ(※注)さんとの面接でした。(カルラさんには、僕がロメオの会社を辞めた後も、大変お世話になりました。)

僕はイタリア語が話せないということで、通訳までつけて頂いた特別待遇の面接でした。僕は、面接で彼らにNOと言われないように、デザイン画だけではなく、面接用に実物製作した10着くらいを持参しましたよ。極東の日本からこの日のために10着も実物の服を作って持っていく位の本気度は見せないと。One of themではいけないのです。

─ カルラさんの反応はいかがでしたか?

研壁:カルラさんからは作品に対して、「素敵!素敵!」という言葉をもらいました。でも、おそらく、イタリア人がよく言うお世辞です。最後に、「ところであなた、英語かイタリア語は話せる?」と真顔で言われたので、「ほとんど話せません」と正直に答えました。

すると、「あなたの作品は好きなんだけど、語学を勉強してから来なさい」と言われました。軽くあしらわれたわけですけど、こちらは後に引けないわけです。彼女に言われたように語学を勉強してまた来ることにしました。

※注 カルラ ソッツァーニ
ミラノを代表するセレクトショップである10 CORSO COMOのオーナー。カルラの実妹であるフランカ ソッツァーニは、ファッション誌「VOGUE ITALIA」の編集長であり、姉妹ともイタリアファッション界の重要人物。

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    ロメオとカルラさんが掲載されている雑誌、左側の男性がロメオ ジリ

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    左側の女性がカルラさん

─ そこでくじけずに、しばらくイタリアで語学を勉強されたのですか?

研壁:まずは、イタリアで語学を勉強できる学校を探さなければいけません。当時のイタリアには日本語の印刷物はほとんどありませんでしたし、インターネットで調べることも出来ないので学校探しも一苦労です。
面接後、ロメオの初めてとなるパリコレのショーチケットを頂いたので、ショーを観にパリに行ったついでに、パリの日本の書店で「地球の歩き方:ヨーロッパ留学特集」を見つけ出して読み、経済的で内容の濃さそうなペルージャにある語学学校を探し当てました。ショーを見せてもらった後、一路、パリからペルージャへと向かいました。
語学学校は週20時間の授業で、1か月の授業料が約2万4千円と、当時の日本の物価を考えてもとても安かったと思います。アパートも、1か月、2万5千円位だったでしょうか? ペルージャで3か月間、みっちりとイタリア語を勉強しました。

─ 3か月後に語学学校での勉強を終えて、どうされたのですか?

研壁:所持金も減ってきているし、切羽詰まっていますから、学校を終えてすぐにロメオのところに電話しました。カルラさんに、「3か月前に面接して頂いたノリオですけど、覚えていらっしゃいますか?」と言ったら、「もちろんよ!」愛想よく言ってくれました。向こうの人はそういうところ、うまいんですよね。(笑)
それで、「明日来れる?」といわれたので行きました。「言われた通り勉強して少しはイタリア語が話せるようになりましたよ」と。その日からロメオのところで働くことになったわけです。

─ 記念すべき、ロメオ ジリでの最初のお仕事の内容は?

研壁:インドの刺繍工場に出す仕事で、本を渡されて、イメージを探し、型紙にイメージの刺繍デザインをトレースして工場に出す、という内容でした。

─ ロメオのもとでキャリアをスタートさせ、憧れの方と仕事ができたわけですが、当時は少しでも「夢をかなえた」という実感はありましたか?

2ショット当時の研壁さんとマックイーンの2ショット研壁:「夢をかなえた」という実感は全然なかったです。
なぜならそれは到達点ではありませんから。それ以前に、当時は自分の生活でいっぱいいっぱい。また、どうやって周囲に認めてもらえるかで必死でした。もちろん、まわりの同僚はみんな友達というか、良い仲間でしたが、みんな僕よりも数段できるライバルばかりで、僕のように、語学もできない、経験も浅い、若い、というハンディのある存在が、彼らと同等にやっていくためには、人一倍の努力が必要だった訳です。(※注)

例えば、彼らが100枚デザインを提出するときに自分は500枚出す、みたいな。そうなってくると、ロメオも全部なんて見ていられないから、「お前、もうこの中から好きなのやらせるから」となったりするんですね。そういう風に量で勝負するしかないときもありました。

※注 ロメオ時代の同僚の一人に、のちにロンドンやパリで活躍するアレキサンダー マックイーンがいた。
ほぼ同じ時期にロメオのアトリエに入り出会った二人は、お互いの年齢が近かったこと、二人ともイタリア語が不十分だったこともあり、自然と一緒になることが多かった。
(詳細は研壁さんのブログ参照