第26回ザッカデザイン画コンペティション

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特別企画

研壁宣男

日本を代表するファッションデザイナーである<support surface>研壁宣男さんのキャリアとクリエーションの秘密に迫るインタビューをお届けします。
「夢と情熱があれば、道は拓ける」そんな勇気がわいてくる内容です。
デザイナー志望者はもちろん、ファッション業界で働きたい方は必見です!!

<support surface>研壁宣男さん キャリアインタビュー(Part1)

~ロメオ ジリに憧れ、イタリアで働く決心をする~

─ ファッションデザイナーを目指したきっかけを教えてください。高校を卒業される際に、進路をどのように考えていましたか?

研壁:高校は地元である岐阜県の進学校に通っていましたが、美術が得意だったので、普通大学ではなく、美大系に進もうと高一の時に決めました。当時、色々あるデザインの中でも、ファッションデザインにとても興味をもち、ファッションという学部がない美大ではなく、総合デザインの中で、ファッションを学べる、桑沢デザイン研究所に進みました。

─ 研壁さんは、学校を卒業してすぐに、イタリアに渡って活動されています。海外に渡ってデザイナーの仕事をしようとしたきっかけを教えてください。

研壁:卒業後、海外へ行こうとしたきっかけになったことのひとつに、桑沢の在学中に、衣服のコンペティションで受賞したことがあります。繊研賞や装苑賞といったコンペで受賞しました。

運良く受賞しましたが、そこである種の違和感を感じました。コンテスト用の服というのは、「センスが良い服」とはまたちょっと違って、アートというか衣装的なのですね。自分が本当に作りたい服はこういうものなのだろうか、いや、違うな、と。そういう意味では、コンペは自分にとって反面教師というか、大切なことを気付かせてくれました。

そこで、今までやってきたことを一回リセットしようと。
そのためには、生活環境から全てリセット出来ればと感じていたので、海外に行くことも選択肢に入ってきました。ちょうどその頃です、ロメオ ジリというデザイナーの作品に出合ったのは。これがもう衝撃的で、「ああ、この人のところで働きたい!」と思ったわけです。

─ 研壁さんの人生に大きな影響を与えた、ロメオ ジリの素晴らしさについて、教えてください。スターデザイナーであったロメオの作品のどのようなところが衝撃的だったのでしょうか?

研壁:当時、パリなどヨーロッパのコレクションでは、劇場型の衣服がランウェイを飾っていました。ジャン ポール ゴルチエやティエリー ミュグレー、アズディン アライア、クロード モンタナなどのブランドに代表される、強烈な造形の《強い》スタイルの服が席巻していた時代です。
そんな中で、ロメオはとてもピュアでナチュラルな服を発表したわけです。
ショーもステージではなくてフロアショーだったり、モデルたちも自然なメイクで、服もナチュラルで品があり、淡い色味。「こうゆうのが、今女性が着てみたい服じゃないのかな?」「こういう表現があったのか、やられた!」と思いました。
当時、女の人が潜在的に持っている「こういう服を着てみたい」という欲求を満たすピュアな服を、どのデザイナーも彼以上にうまく表現できなかったのです。

特に、87年、88年のロメオの作品は僕にとって一番輝いていて、「あ、こういうの待ってた」という空気感が、世界一斉に瞬時のうちに広がって、ロメオが時代の寵児になっていきました。当時のロメオの作品は、今見ても、全然古さを感じさせませんね。

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    研壁さんがロメオ ジリの作品で一番好きな時代の写真

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─ ロメオに憧れたものの、海外で働くためには、覚悟もお金も必要ですが、どのように考え、どのような準備をされたのですか?

研壁:イタリアに行って働くには、それだけの資金も必要です。卒業後にバイトなどでお金を貯めて、半年分くらいの滞在費用を用意しました。あとは「どうにかなるさ、当たって砕けろ」的な。周囲の友達や親兄弟も、「しばらく帰ってくるなよ」みたい雰囲気があって、当時販売されていた片道航空券というチケットでイタリアに行きました。「すぐには帰ってこられないな」と思って、帰りのチケットは用意しなかったのです。

─ 卒業後、就職しないで準備を進め、そのままイタリアに行かれたわけですね。当時、イタリア語はどれくらい話せたのですか? また、ロメオ ジリで働ける保証はあったのでしょうか?

研壁:イタリア語はほぼ話せませんでした。そういう意味では、準備が甘かったです。また、ロメオのところで働かせてもらえる保証も、全くありませんでした。当時のロメオは時代の寵児で、世界中から腕に覚えのある若いデザイナーの卵たちが、毎日のように門を叩きに来る状況です。

実は、普通に行ったら門前払いされるだろうと思って、日本市場に初めてロメオを紹介したバイヤー兼ファッションディレクターの方に、一度日本で会ってもらい、「ロメオのところで働きたい」と相談をしてみました。その方は、関西の方なのですが、僕に対してすごい良くしていただきました。
「わかった、雇うのは向こうの問題なので確約でけへんけど、面接の機会はセッティングしたるわ。あとは知らんでー」とおっしゃって、僕とロメオの面接をイタリアで実現してくれたのです。ロメオとしても日本のマーケットのことは無視できなかったはずなので、その方からの推薦は断れない状態だったのでしょう。

  • 当時の雑誌

    ロメオ ジリ作品が特集されている当時の雑誌

  • 当時の雑誌
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